Pierre Jeanneret Tokyo

Pierre Jeanneret


 
 
 

Jeanneret and Le Corbusier/ジャンヌレとコルビジェ

 ジャンヌレとコルビジェ
ジャンヌレ(右)とコルビジェ

 

スイス、ジュネーブ出身の建築家、ピエール・ジャンヌレ。近代建築の巨匠と称されるコルビジェ(別名ル・コルビュジエ。本名・シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ)はいとこにあたります。しかし、ピエール・ジャンヌレ(以下ジャンヌレ)のレガシーは、コルビジェの従弟であったことではありません。

 

9歳年上のコルビジェを師と仰ぎ、1922年に二人でパリに建築事務所を設立した時のジャンヌレはまだ26歳。セーブル通りに構えた彼らのアトリエには、後にチームとして多くの作品をコラボレートしたフランス人建築家のシャルロット・ペリアンや、日本から渡仏していた建築家、前川國男、板倉準三も入所しました。

 

実は建築について専門的な教育を受けたことのなかったコルビジェと、ジュネーブの美術学校で建築学を学んだジャンヌレは、この共同事務所時代に数々の建築作品、またリノベーションを手がけ、モダニズムに対する二人のイデオロギーもこの間に確立されていったと言われています。第2次世界大戦時には政治的思想の違いから一旦二人のパートナーシップは解散してしまうものの、終戦後、インドの都市計画、チャンディーガルキャピタルプロジェクトを依頼されたコルビジェは、ジャンヌレが現地の監督となることを条件に仕事を引き受け、ジャンヌレもこれを承諾。二人のコラボレーションは都市の創造という壮大なスケールで再開します。コルビジェ64歳、ジャンヌレは55歳の時でした。

 

社交的で営業上手な一方で気難しく、作業に対する要求が多かったと言われるコルビジェに対し、温和で内向的だったジャンヌレは、決してコルビジェより前に出ることなく、その静かな情熱を常に革新的なデザインとディテールへ注ぐ職人だったと言われています。

 

“Jeanneret was in the “shadow” of his cousin….” 今日見られるジャンヌレに関する記事にはこんな記述が少なくありません。

 

建築家としての人生のほとんどの歳月をコルビジェとの共同作業に費やしたジャンヌレは、建築界のカリスマとしての眩しい光を放っていたコルビジェの傍で目立たないポジションに自らを置き、そのバックグラウンドでコルビジェを最も良く理解し、また技術的にも知識的にも優秀なパートナーとして、多くのプロジェクトに貢献しました。

 

 

 

Chandigarh/チャンディーガル

 

“The city beautiful”と称される、インド初の都市計画により建設されたパンジャブ州の州都。英国から独立したばかりだったインドの初代首相、ジャワハルラール・ネルーの指示により、(英国領であった)過去の束縛から解き放たれた自由の象徴として立案されたこの都市計画は、コルビジェとジャンヌレが率いるプロジェクトチームにより実施され、州議事堂や高等裁判所、学校や美術館など多くのモダニズム建造物が立ち並ぶ街が造られました。その中にはパンジャブ大学や7000戸にものぼると言われる集合住宅など、ジャンヌレが単独で設計を担当したものも含まれます。

  

コルビジェはこのプロジェクトのために20回以上渡航して現地を訪れたとされていますが、ジャンヌレはプロジェクトに着手した1951年にチャンディーガルに居を移した後、体調を崩して母国スイスへ帰国する1965年までの約15年間、そのまま現地で暮らしてチャンディーガルの主任建築家として従事し、またインド国内の他の都市計画にも貢献しました。

 

コルビジェは後に「チャンディーガルプロジェクトはピエールがいなければ成し得なかった」と従弟の功績を称賛しています。帰国の2年後に亡くなった際、遺灰がチャンディーガルのスクナ湖に散骨されたのも、その建設から成長を見守り続けた街への愛しみを込めたジャンヌレ本人の遺言によるものでした。

 

ジャンヌレ自作のボートでコルビジェと
自身で設計したボートに乗りスクナ湖でコルビジェと寛ぐジャンヌレ
 

 

 

 

Chandigarh furniture of Jeanneret/ジャンヌレのチャンディーガル家具

 

ジャンヌレは、チャンディーガルプロジェクトの一環として、それらの建物の中に配するための家具もデザインしました。”Man of simple things”とも言われていたジャンヌレの家具は、彼のモダニズム建築同様、ミニマルな美しさに実用性が伴う、まさにチャンディーガルのエッセンスが吹き込まれたものでした。椅子だけでも数千脚に及んだと言われるその家具の素材にはチーク材や藤など現地で供給を賄えるものを用い、また現地の人々の生活の中で培われていた文化や手工芸の技術を巧みに活かして生産される様、熱心に研究を重ねたというジェンヌレ。”サスティナブルなモノ作り”、”エシカルトレード”といった現代社会が掲げているスローガンは、1950年代に都市建設を手掛けていたジャンヌレにとって提唱するまでもない基本概念だったのでしょう。

 

チャンディーガルファニチャーとも呼ばれる、”X”や”V"シェイプに代表されるジャンヌレの家具は、彼が理想とするモダニズムを地元の素材で紡ぐインドの工芸職人たちの伝統技術により生まれていきました。

 

しかし、チャンディーガルの都市建設当時には大量の家具が必要とされた為、ニューデリーなどジャンヌレの監修の届かない工場でも、設計図の基準を守らない、”同じ様なデザイン”に過ぎない家具も多く作られました。真のジャンヌレの設計図は、ほぞ継ぎや蟻(あり)継ぎといった伝統的で高度な技術を必要とします。そして当時、ジャンヌレのデザインオフィス監修のもとにその設計図に忠実に作られたものだけが”オリジナル”なのです。

 

ジャンヌレが1950年代に手掛けたチャンディーガルの家具は、経年による老朽や破損、また不運な保管状態により、今日コンディションの良いものはオークションで非常に高価に取引されており、入手困難です。更にチャンディーガルのキャピトルコンプレックス*が2016年にユネスコ世界遺産に登録されて以来、インドから国外へ持ち出すことは禁止されています。ですが近年になって、インド国内に残るジャンヌレのレガシーを継承する工場で、チャンディーガルファニチャーの再現というプロジェクトが始まっています。

 

この動きはジャンヌレがデザインした家具を現代のファンに届けるだけではなく、更に次の世代へその技術を引き継いでいくという大切な役割も担っています。

 

 

OFFICE CANED CHAIR

 

 

 

 

Re-Authentic Jeanneret/オーセンティックなジャンヌレの再現

 

私たちがお届けするジャンヌレのチャンディーガルファニチャーは、ジャンヌレ自身がデザインした設計図と貴重な当時のオリジナルを所有するインド国内の工場で生産されます。美しい家具作りに魅了されている熟練工たちが、大型機械による大量生産にはできない、手作業だからこそできる家具を世界中の顧客に向けて作り続けているこの工場で、実際にジャンヌレデザインオフィス監修の工場で家具職人として従事していた親から直接指導を受けた息子たちが、ジャンヌレの再現プロジェクトチームの資材調達から生産の全工程を監修しています。

 

 

厳選したコンディションのチーク古材の再利用

弓なりの背もたれや、座面、肘置きの角度

丸みを帯びた縁や座面のわずかな窪み

釘やネジを使わずに接合する「継ぎ加工」

まさに手で紡ぐ藤作りのシート

1脚の椅子に平均1週間かけて仕上げる入念な研磨作業

 

ジャンヌレの息を再現する為の要素はまだまだたくさんあります。彼らは親の代から受け継いでいる技法とディテールを正確に守り、誇りを持ってオーセンティックなジャンヌレの再現に取り組んでいます。そこから生まれるのは、「ジャンヌレの様な家具」ではなく、オリジナル設計図に忠実に製作される「ジャンヌレのチャンディーガルファニチャー」なのです。

 

 

異国の地で州都を建設するという壮大な事業のためにジャンヌレがチャンディーガルに足を踏み入れてから70年余。21世期は、偉大な建築家の従兄を陰で支えていたとされるピエール・ジャンヌレのレガシーをリビジット(revisit=再訪)して、ジャンヌレが残したチャンディーガルファニチャーに光を射し込みました。時を経て、現代の職人たちがオリジナルを正確に再現する作品には、設計図や技術だけではなく、ジャンヌレへのオマージュも引き継がれています。

 

ピエールジャンヌレ
Pierre Jeanneret/ピエールジャンヌレ (1896 - 1967)

 

 


*チャンディーガルキャピトルコンプレックス
チャンディーガル都市建設事業により建てられた行政庁舎、高等裁判所、議事堂などの建造物群